へカーテの花〈5〉
グレジュビプチ連載 へカーテの花 第5幕、です。
書ける時には頑張って書いておこう、と。
連続投下、すみません。
それでは、どぞ
*
ーーあの、お花が、可哀想です。
そんな事をしたら、きっと、痛いと思います……!
ーー結婚、してくれないか?ジュビア。
俺には、君が必要なんだ。
ーーくだらねぇ。愛とか恋とかそんなもんに興味なんかねぇよ。
利用してんのは、お互い様だろ。
ゆるゆると、微睡みから目を覚ますと、窓の外には、オレンジ色の夕空が、拡がっていた。
どうやらソファの上で、ついウトウトとして、そのまま眠ってしまっていたらしい。
ジュビアは気怠げに、クッションに凭れかけていた上体を起こして、小さく伸びをした。
まだ少し重い瞼を開けて、何度か瞬きを繰り返す。
何か。
何か、大事な夢を見ていたような、気がする。
ふわふわと霞がかかったような頭で、そんな風に考えてみるけれども、見ていた夢の内容は、さっぱり思い出すことができなかった。
ここに来てから、こうして、何度もぼんやりとした夢を見るようになった。
おそらく、これは、過去の記憶。
グレイと、共に暮らすことで、頭の、そして心の奥から呼び戻される、過去の幻影であるような気がする。
しかし、それは、毎回きちんとした形を取ってはくれない。
きっと、それが形を成さない大きな原因の一つは、ジュビアがそれを心の何処かで拒否しているから。
慈善院に居た時もそうだった。
何かを思い出そうとすると、とんでもない頭痛と嘔吐感がせりだしてきて、ジュビアはとにかく過去を思い出す事を避けていた。
わずかに顔を上げて、ふぅ、と小さなため息をつく。
……思い出したい、と。
そう思う気持ちが、少しずつ増えていることは、確かだ。
ここで、暮らすようになってから、少しずつ。
ジュビアは、膝の上に載せたままになっていた刺繍のタンブールを手に取った。
グレイが言うには、どうやらジュビアは刺繍が趣味だったらしい。
『おまえ、これが好きだったから。
もし良ければ、刺してみるといい』
そう言って、グレイは、上品で質の良さそうな裁縫の道具を一揃、用意してくれた。
不思議なもので、記憶はなくても手が覚えていたのか、ジュビアはすぐに、その道具を使って様々な刺繍を刺すことが出来た。
刺繍は、ジュビアの心をとても落ち着かせてくれた。
きっと以前もそうだったのだろう、と自然に思える。
グレイのこうした、小さな心遣いをジュビアはとても嬉しく思う。
ここで、暮らし始めて、約半月が過ぎた。
グレイは2〜3日に1度のペースで、帝都とこちらを往復する毎日を、送っている。仕事の後に、1時間も馬を走らせて夜遅くにこちらに帰ってきては、次の1日をここでジュビアと過ごしたあと、またその日の夜に帝都に向かって戻っていく。
『身体がお休みになられないのではありませんか?』
気遣ってそう尋ねても
『昔の生活に比べたらこんなのへでもねぇよ』
と返してくるだけだ。
昔の生活って?とジュビアが首を傾げて聞いた時にはグレイは髪を搔き上げて苦笑しただけだった。
ここで、2人で過ごす時間は、とても穏やかに流れてゆく。
2人で、他愛もないことを話しながら、ジュビアの焼いたお菓子でお茶を飲んだり。
グレイが、何やら仕事の書類らしきものを認めて(したためて)いる横で、ジュビアが針を刺していたり。
庭で摘んだ花を活けているジュビアをグレイが興味深そうに眺めていたり。
穏やかに過ごすその時間の中で、グレイは宣言通りに、不用意にジュビアに触れてこようとはしなかった。
何度か視線を感じて振り向いたその時に、じっとこちらを見つめているグレイと目が合うこともあって。
そういう時、温かなその瞳の奥に、時折不意に伸ばされかけたその指に、僅かに滲む熱を感じない訳では、なかったけれど。
でも、いつも、じっとグレイを見つめるジュビアに対して、そっと目を伏せてその熱を逃してくれた。
使用人達も、グレイから言いつかっているのか、突然にジュビアの後ろから声をかけたり、近寄ってきたりしようとするものはいない。 誰かに、特に、男の人に、背後から近付かれるとビクッと身体を固くしてしまうジュビアに、皆が気を使って生活してくれていた。
刺していた刺繍の模様を、そっと指でなぞってみる。
淡いグレーのハンカチーフに、白と水色の糸で織り成す、氷の結晶で彩られた剣。
何かを刺繍してみようと思ったその時に。
一番始めに、この模様が頭に浮かんで、そしてそれをグレイに贈ってみようか、と、そう思った。
本当に、自然に、心の中からそんな感情がわいてきたことに、不思議な感覚がした。
そして、気が付くと、なんだかいつもグレイの事を考えている自分にも気づく。
彼が帝都に戻っている2〜3日の間、どこかぽっかり穴があいたように、寂しいと思っている自分にも。
グレイは、昨日の夜遅くに、馬を走らせて帝都に戻って行った。
「もう1日こっちに居るつもりだったのに。
急に面倒な仕事押しつけてきやがって、あのクソ鉄め」
ピキピキと青筋を立ててそんな風に愚痴りながら。
あと2日?3日?
どのくらい待ったら、彼に会えるのかしら?
そんな風に思ってしまう自分を、自分で受け入れられずに持て余してしまう。
そんな事を考えていたら、屋敷の玄関の辺りが、なんだかざわついているのが、聴こえてきた。
バタバタと人が走り回って、焦って何かを話しているような人の声も聴こえる。
なんだか慌ただしい。
どうしたの、かしら?
普段なら何事にも、家令のジェフリーがきちんと対応しているはずなのに。
ジュビアは、手にしていたタンブールをそっとテーブルの上に置いた。
それから、急いで部屋の扉を抜けて、玄関の喧騒に向かって足を向けた。
*
「…グレイ様…!?」
玄関で、ロキと共に外套を脱いでいるグレイを見つけて、ジュビアは思わずそう叫んでしまった。
「ジュビア」
「お帰りに、なられたのですか…?
今日は、お戻りにならない、って……」
にっこりと微笑んでジュビアの名前を呼んだグレイに対して、ジュビアは驚きを隠せない表情でそう尋ねた。
「うん。まぁ、ちょっとな」
笑ってそう返事をしたグレイの横で、ロキが苦虫を潰したような顔でため息をつく。
「ちょっとな、じゃないよ、グレイ」
「あーもう、いつまでもうるせぇな、ロキ」
「…は?
うるせぇ、って、どの口が言うのさ。
大体こんな無茶して…」
「旦那様」
心底イラッとした顔をして説教をしかけたロキの声を家令のジェフリーが遮った。
「反省してくださらないと、困りますよ?」
「……わかってるよ」
ジェフリーにまで、厳しい顔でそんな風に注意をされて、グレイが気まずそうに、そう返事をした。
「…、あの…」
話の流れが読めなくて、思わず口を挟んでしまってから、ジュビアは目の前に突き出された腕の、その赤を見て大きく目を見開いた。
「……!!」
「……ぃつっ、おい、ロキ!」
グレイの腕を無遠慮に掴んで、ジュビアの方に突き出したロキは、またしても悪態をついてきた上官を胡乱な目で睨みつけた。
「グレイ様…!
腕が……!」
「こんな腕で、1時間も馬を早駆けさせるような馬鹿に何も言われたくないね」
「……おまえ、仮にも上官にむかって馬鹿はねぇだろ」
グレイが、平たい目をしてロキをじとっと見つめてそう言った。
そのグレイの腕がじわりと赤く染まっている。
シャツにまで滲んでいるその赤を見れば、その下に巻かれている包帯はもっと赤くなっていることだろう。
「どうなさったのですか!?
こんな、お怪我……」
「なんでもねぇよ。ちょっとしくっただけだ」
「何でもないことないよね。
あんな風に部下を庇って飛び出して」
ロキがまたしてもため息をつきなからそう言って、それからジュビアの方に向き直って、説明を始めた。
「全軍合同の、実戦演習があってね。
その演習中に、新人同士が、ヘマをして」
「ロキ」
「で、その2人の間に入って、2人とも怪我させない様にしたまではよかったけど、その時に自分の腕をバッサリと」
「仕方ねぇだろ。
あのままだったら、1人は死んでた」
余計な事を言わなくていいとばかりに遮ったグレイを物ともせず、ロキが説明してくれた事によると。
新人2人が上手く剣の勢いを捌ききれずに、周りの剣戟に巻き込まれ、そのままだと、双方無事で済まないというヘマをしたのだという。グレイが咄嗟に2人の間に入って1人の剣を捌いてその兵士を思いっきり蹴り飛ばした後。
あろう事か別の誰かの剣を避け損ねたもう1人を自分の腕で庇ったのだと言う。
「…っ、グレイ様…」
「大丈夫だから、こんなん」
泣きそうな顔でグレイの名前を呼んだジュビアに向かって、グレイは本当に何でもないことのように笑ってそう言った。
しかし、ロキの苦言はまだ続いていて。
「それで、3〜4日は安静にしてるように、って医者にも言われたんだよ。
なのに今度は、それなら帝都の屋敷じゃなくてここに戻るだなんだとワガママ言い出して」
「……!!」
「いくら駄目だっつってもきかないから。
じゃあせめて馬車で移動しろ、っつってんのにこの大バカが言うこときかなくて」
「大バカ、っておまえな……」
「……グレイ様」
「この程度の怪我で馬に乗れなくなるような、ヤワな人生送ってねぇっつの!
チンタラ馬車なんぞに揺られてられっか」
「そんな事言って、思いっきり傷口開いてるけど?」
ロキが心底面倒くさそうにそう言ったのを、グレイがまた苦虫を潰したような顔で聞いていた。
ずっとグチグチと説教を食らっていたのだろう、顔に『もうわかったっつの』と書いてある。
ジュビアは、グレイのその赤く染まった腕を見て、自分の中からこみ上げてくるものを我慢できなくなった。
こんな、無茶を、して。
いつも、いつも、この人は、こうしてジュビアを心配ばっかりさせて。
記憶の奥底から、そんな思いがこみ上げてくる。
ゆっくりと、グレイのその腕に、手を伸ばした。
そして、そっと、指先でその傷口に触れてみる。
すると、グレイの方が、思わずビクリ、と肩を震わせたけれど。
ジュビアはそんなグレイには構わず、そのままそっと、その腕に両手を添えた。
触れて、そこに、血の通う温かな体温を感じた、その瞬間に。
ポロポロ、ポロポロと、瞳から涙が零れて落ちて、くる。
「…む、無茶、しないで、ください…」
「……ジュビア」
「…っ、ジュビアが」
「………」
「ジュビアが、どれだけ心配するか、グレイ様にはわからないんですか?」
涙声になるのを必死で我慢しながら、キッとまるで睨みつけるように上目遣いになってそう言うと。
グレイは、クシャリ、と笑みを歪ませて、じっとジュビアを見つめた。
そして。
おずおずとジュビアに向かって怪我をしていない方の手を伸ばす。
頬の近くまで伸ばした手を、触れる手前で止めて、グレイは、グッとその掌を握りしめた。
でも、そのまま少しの間逡巡した後で、恐る恐るその手を開いて。
それから、何かに許しを請うように震えるその手で、ゆっくりとジュビアの頬に触れて、そっとその涙を拭った。
「……ごめん」
頬を覆ってくれる、その大きな手の温かさに。
それから気まずそうに謝ってくれたその優しい声にも。
なんだか、物凄く安心して、そうしたらまた更にポロポロと涙が零れて出てきた。
前も、ずっとこうだった。
普段は冷たい態度ばかりとるくせに、こんな風に無茶ばかりしてジュビアが泣いてしまった時には、気まずそうに謝って、ジュビアが泣き止むまで黙って側に居てくれた。
何も思い出せないのに、なぜそんなふうに思うのか自分でも不思議でたまらない。
僅かに開いた記憶の扉は、ちっともちゃんとした形は取ってはくれないけれど。
それでも、確かにここにある、そんな気持ちが少しずつ、ジュビアを形作ってゆく。
きっと、自分は。
この人が、好きだったのかも、しれない、とーー。
〈続〉
*
動き出す、ジュビアの気持ち。